明治31年(1898年)生まれの著名人で結成された、三一会と言う会がありました。
中島国治氏が所属していた藤原歌劇団創始、藤原義江氏もその会のメンバーでした。
中島氏は「たしか昭和37か38年」帝国ホテルで行われていた、三一会に参加していた藤原氏に忘れ物の封筒を届けます。中身は楽譜ではなく原稿だった様です。
藤原氏は会場で、会のメンバーで、島根県選出の国会議員である宇都宮登氏に「イタリアに音楽の勉強に行って、音楽の勉強をしないで、馬の事を勉強をしてきたウマキチがいる」といって中島氏を紹介します。
宇都宮氏は、うちにも「ウマキチがいる」といって、連れのビオラの奏者を藤原氏と中島氏に紹介します。
そのビオラの奏者が実は、中島氏の知り合いだったのです。
中島氏は、馬主で東京馬主協会の役員でもある宇都宮氏に、「なら家に遊びに来なさい」と言われます。
そして、多摩市乞田にある宇都宮氏の豪邸に訪問する様になります。
宇都宮氏の豪邸は行くたびに、撮影していて病院になったり、警察署になったりしていたといいます。
この事をきっかけに、中島氏は東京競馬場の馬主の役員ルーム、そして、厩舎にも出入りする様になります。